「楽しみたい」からこそ、伝える技術を身に付けたい。
イタリアの中学に通って見て、自分の意見を聞かれる機会が多く、とても苦労しました。授業中は、すぐにテキストから脱線して自分のケースに当てはめて話さなければならなくなります。もはや脱線ではなく、それが授業だったんですが。
世界情勢に対する意見、日本人して、捕鯨をどう思うか、福島はどうなっているのか、将来はどうしたいのか、何故、イタリア語を学びたいのか、など日本語で答えることさえ、難しいことをどんどん聞かれます。
先生は、私が日本人であることで、興味を持ってその答えを聞きたいという部分もさることながら、人前で話すことや伝えることを訓練させている訳です。実際に、卒業はそれぞれの科目の先生から、インタビューを受ける時間があり、これがテストの点数と同等に重要視されていました。
実際
”欧米諸国の言語教育は
1)コミュニケーションの道具としての言葉の使い方すなわち、事実、状況、意見、感情などを伝える技術
2)他人の書いたものを鑑賞する読解力の技術、
の二本立てで行なわれており、この二つの比重がほぼ等しい”
のだそうです。
日本で扱われる国語では、2)の読解力技術の要素の比重が多く、少なくとも私が学生時代だった頃の国語は、膨大な量の漢字やことわざの記憶と、他人の書いたものを鑑賞する読解力の技術中心の授業内容とテストの繰り返しでした。
コミュニケーションの特に伝える技術は、社会人になって研修ではじめて改めてトレーニングを受け、それまでの伝える技術の未熟さを痛感させれました。
そこで、最初に気づいたのは、
「事実」と「意見」を言い分ける技術が圧倒的に弱い
と言うことでした。
「事実」と「意見」を言い分けられる様になる事は、伝える能力をアップさせるだけでなく、情報や体験を「事実」なのか「意見」なのかを聞き分けられる様になることと結びついています。曖昧な情報に惑わされたり、振り回される事が圧倒的に減っていくばかりでなく、誰かの意見や解釈に惑わされないようにもなります。
事実と意見の区別の大事さを物理学者である木下是雄氏はその著書の中で以下のように述べ、日本の国語教育を変えるべきだと80年代頃から言語教育への開発に関わっていました。
以下、この本からの引用です
”情報を正確につたえ、意見を整然と述べるための言語教育は文学教育ではない作文教育といってよろしい、従来の国語教育は大体において文学教育であった、そうでない国語教育も必要だ”
伝える技術が未熟な事により、日本の真の良さやが世界に伝わってきていないことも否定できないのではと感じます。何より、日常生活の中で、全くその気もないのに起きてしまう闘争や緊張は、ほとんどの場合、「伝える」技術の欠如と言えるのではないかと思うのです。
私の師匠の一人であるセラピストのロン・クルツが日本に来日した時には、
「日本人の皆様は、世界でも稀に見るほど、私の話を良く聞いてくれます。ただ、意見や質問を恥ずかしがらずに出せたら、もっと自己を深く探究するのに役立つと思います。」と言っていました。
当サイトでは、1)の言語教育であるラングエッジアートの能力を伸ばし、いかに楽しく美しく他者とコミュニケーションをとるかを探究しています。