不快な組織に「サヨナラする」ことが何故、大事なのか?
2014年の夏頃、サバイバルモードを意識化しない組織の崩壊について書いて記事について再度アップします。以下、転載します。(当時のUDARAメルマガより)
山登りに誘われ、往復6時間歩きました。膝ががくがくしながらも、9歳、13歳、15歳の少年と私のパートナー、彼らの保護者である2人のイタリア人男性という特殊なチームで歩きつづけなんとか完歩しましたw
今回、この変則的なチームの中で歩いていることで、自分の潜在的な能力が心地よく引き出される体験をすることが出来ました。特に印象に残ったのは最年少の9歳の少年。
【山登り=きつい】という概念が存在すらしない9歳の彼の足取りは6時間の間一度も変わることがありません。その彼の「存在」が「ただ歩く」という私の能力を引き出したのです。筋肉痛はあるものの、6時間歩いている間中、まるで遊んでいるかの様な不思議な感覚がチーム全体をつつんでいたのです。
人生で一人で【険しい山】だと思い込んでいる事も、意図に沿ったチームとただ共に歩くというセンスがあったら、まるで遊んでいるかの様に行きたい場所へと到達することが出来ることを実感させるエピソードでした。
過渡期を迎えている現代においては、
【自分の意図に沿ったチームを意図的に選択するという視点】が欠かせません。
このサイトを読んでくださっている読者の方々の中には、近年、物事の変化のスパンが加速していることを敏感に察知している人も多いのではないかと思います。
人為的なモデルチェンジなどがもたらす流行のスパンの速さから、自然界の激しい気象
や自然環境の変化、或いは、さっきまで大事にしていたことが数分後には崩壊すると
言う身近な出来事の変化の速さなどなど。
そんな激変を続けるのにもっとも重要な能力の一つは、
【変動し続ける現実を的確に捉え対応する能力】です。
ただ、多様化する価値観の中でこの能力をたった一人で開発し、保ち続ける事は、ほぼ不可能です。さらに言えば、個人が自分一人で意識できる能力の範囲には限界があるのです。
これを新しい可能性を引き出すための言語に変えてみました。渦巻く偽造の現実を回避し、空高くダイナミックに飛べる風をつかまえ、乗りこなす能力を身につけ、意図に沿った人々とつながっていくこと。
こんな風に書いてみるだけで、心地よく後押ししてくれる風の間に翼を広げて旋回している間に、意図に沿った仲間と大空を駆け巡る自分が思い浮かんできます。
言語を、独立して存在している現実を描くものと見なす代わりに、自らの経験を新しく解釈し直すための力、そして新しい現実をひきだすことを可能にするかもしれない力として認識する事(ピーター・M・センゲ)
その組織に所属しているメンバーそれぞれが個性を薄められることなく生き生きと活躍し、組織全体も強くなっていくチームの大切さが問われつづけているにも関わらず、実際にこれを現実化している組織や企業に出会う事は稀です。
これを理解するために、多くの人々が意識化できていない欲求を観察しておく必要があります。私たちがそうしたいかそうしたくないかに関わらず、生存欲求の中に集団欲求というものがあります。
具体的に言えば、それはマインドではこんな囁きになります。
・そんなに好きではないパートナーでも、離れると不安。
・反りの合わない会社でも止めるのは怖い。
・心から賛同していない価値観でもNOと言って孤独になるのはきつい。
etc.,
意識化することの難しいこの欲求が満たされないと何が起きるのかを想像してみることは難しいかもしれないのでより身近な食欲を例に考えてみましょう。
食べるものがなく空腹な状態が長期に渡れば、
→とにかく何でもいいから食べられるものを食べる
どこかに所属していない孤独感が続けば、自分がそうしたいかどうかと関係なく、とにかく何でもいいから入りやすい組織に所属してしまう可能性が高くなるのです。
生存欲求を埋めるためになんとなく存在している組織は、やはりなんとなく「個」の輝きを奪いつづけ、「全体」を成長させるどころか、衰退していくというお約束の道を辿ります。(上記は、2014年8月の体験期をに加筆・修正した記事です。)
2014年のこの記事を書いて以降、大きな組織が次々と崩壊していきました。本能的なサバイバルモードを意識化していない組織は、自傷行為をしているのです。最後に、あとでわかったことですがこの9歳の少年は、時々咲いている自然の花をみるたび足早に近づきその花の写真をとっていました。その日来れなかった妹への花束のプレゼントを彼は探しながら山を歩いていたのです。