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自分の喜ぶことをやるか、相手が喜ぶものをやるか?

はじめの前提として、私は、このタイトルに対する正しい答えを持っているわけではありません。ただ、こういう二者択一の場合、極端な状態にするとよりリアリティがでてくると思います。

「とにかく自分の喜ぶことをやって生きる」

「とにかく相手が喜ぶことをやって生きる」

日常の中で想像してみるとき、私の場合は、どっちを選んでも楽しいと感じることができません。

遊んでいるときも、仕事をしているときも、(と言っても社会人になってから、「遊び」と「仕事」の区別が完全につけられていない感覚が常にありますが)その場にいる人と、何かを交換し合っていることに喜びを感じます。

自分の好きなことに一人で夢中になれる時間ももちろんあります。そして、誰かを喜ばしたいなと思ってやっていることもあります。ただ、どちらか片方では、遊びも仕事とは思えないし、仕事も遊びにはなってこなかっただろうなと思っています。

「自分」と「相手」の間に生まれてくる何かを観るのが楽しみであり、喜びでもあり、だからこそ、「遊び」も「仕事」も真剣にやりたいなという思いがあります。というか「真剣じゃないと遊びって面白くもなんともないよね」と思っています。

相手がいることで、自分の固まっていた視点が崩壊させられて、何か新しいものが自分の中から生まれてくるときが多々あります。一方で、その場にいる雰囲気と自分の内側にあるものと全く異質であると感じながらも、より自分の内側を信頼して、その感覚を崩さずにいることでその場にいる人々の何かが崩壊して新しい何かが生まれてくることもあります。

この感覚は、色々なものを化学反応させて第三の物質を起こす科学者の喜びのようであり、食材を組み合わせて元の食材よりも、より栄養価の高い一品を作る料理人の喜びのようでもあり、また誰かとセッションをして絶妙な音を奏で、観客をうっとりさせるミュージシャンの喜びのようでもあるのではと思います。

実また、そういう何かが「人」と「人」や「場」や「もの」の間に生まれる瞬間に立ち会える時には、ただそこにいるだけで喜びを感じることがあります。実際に、パーソナルセッションを通じて出会う様々なプロの方と話していても、この錬金術のような話を聞く時には、熱い感覚が届いてきます。

メディア(媒体)という言葉がありますが、インターネットの世界だけでなく、リアリティの中にもメディアの役割を果たしているプロフェッショナル達が様々な形で結晶化を起こしています。

お金を稼ぐかどうかとか有名になるかとか、その辺はすでに、喜びを感じられない世代が出てきているのは偶然ではありません。錬金術を使ってエゴと社会を結晶化させていくことに波動があっていく時代なのだと思います。

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