「本気」で生きることへのご招待
感情の中でも最も根源的なのは「愛 」と 「恐れ」だ。愛は幸福、満足、平和、喜びを生み出す。恐怖からは怒り、憎しみ、不安、罪悪感が生まれる。それは事実だ。しかし、愛か恐れのどちらか一方があると言った方が正しい。なぜなら、この2つの感情を同時に感じることはできないからだ。もっと言えば、「愛」と、「愛の欠如」がある。
みなさん、お元気ですか。マウロ・ラサール・サンジョンです。今日は、僕が人生の中で探求してきた最も重要なプロセスをシェアしたいと思います。僕がどのように生きることへの恐れ、愛することへの恐れ、失敗への恐れ、成功への恐れ、他人からの評価への恐れ、権威への恐れ、自分自身への恐れにアプローチしたきたか。
恐怖は基本的に、祖先から受け継がれてきた生存本能であり、さまざまな形で僕らに危険を知らせ、目を覚まさせ、決して見捨てることはありません。つまり、恐怖は僕らが生きる上で必要なものなのです。恐怖は、僕らを条件付け、固定化させるものではなく、単純に「自動予防停止システム」と呼べばいいのかもしれません。
セネカは「恐怖があれば幸福はない」と言っています。人間は、苦しみを避け、恐怖を直視せず、恐怖が見せてくれるものに怯えるようになりました。逆説的ですが、進化論的な観点から見れば、恐怖こそが僕らの命を救ってきたのです。
実際、恐怖がなければ、私たちは凶暴な動物に襲われ、気候変動で破壊され、飢えで絶滅していたでしょう。恐怖は僕らが生き残るための重要な情報を与えてくれる感情であり、危険を知らせると同時に、敵に立ち向かうための物理的な準備をし、敵から逃げたり攻撃したりする可能を開きます。
そして、今日でも、それが恐怖の主要な機能です。大切に思っているものが危険にさらされている可能性があれば、警戒しなければならないことを僕らに警告してくれているアンテナなのです。
数千年前と同じように、恐怖を感じることで安全や保護を確保できるという原初的な欲求を満たしており、自動的かつ本能的に機能し続けています。今日、私たちを脅かしているのはもはや動物の遠吠えなどではなく、搾取する人、人を見下す無礼な上司、テロリスト、他人の評価、自分が十分でないことへの恐れなどです。
僕自身の話に戻りましょう。自分の恐怖を探求する過程で、僕は、幼少期、恐れを感じたら「逃げる」という反応をしてきたことに気づきました。何かが僕を怖がらせ、息苦しくさせるなら、その感覚を引き起こした特定の状況や人々から自分自身から遠ざけていました。こうして、子どもの頃は、恐怖のために、多くの経験をあきらめていました。落胆したり、落ち込んだり、疑心暗鬼になったり、見捨てられたと感じたとき、僕はずっと逃げてきました。そうすることで、その場は恐怖と向き合うことを避けることが出来ました。でも、その恐怖が消えたわけではなく、僕はただ恐怖から逃げていたのです。そして時が経つにつれ、この気持ちがどこまでも僕を追いかけ続けていることに気づきました
大人になり、思春期を過ぎた20歳前後の頃、簡単に世界を征服できると感じている人々の思い込みや不謹慎さに触れ、恐怖から「逃げる」という反応は、「戦い」へと道を譲りました。怒りを感じたとき、裏切られたと感じたとき、批判されたと感じたとき、そしてコントロールを失ったとき、僕は自分を守るために攻撃するようになりました。恐怖は、全身全霊をかけてライオンのように戦うように僕を駆り立てました。自分を守るためにです。いつの間にかこの自己防衛は、心の奥底を攻撃性で覆うようになりました。要するに、僕をどんな状況でも攻撃することに駆り立てられ、フラストレーションを感じるようになっていたのです。どんな相手にも、どんな恐怖にも圧倒されることなど考えられませんでした。いかなる敗北も許せないかのようでした。
そして30歳を目前にして、僕はカモフラージュという新たな戦略を編み出しました。コンプライアンスを通して、僕は自分の中に引きこもるようになりました。受け身になり、「透明人間 」になるのです。僕は自分自身を消し去り、気づかれないようにし、他人の目にはほとんど見えないようにし、それゆえ障害に直面してもあきらめる傾向があリました。
そしてようやく、自分自身を探っていくうちに、問題は恐怖そのものではなく、恐怖に対する自分の反応にあることを理解しました。実際、自分自身が何を欲しているかが認識できれば、その脅威が現実のものではなく、自分の命を危険にさらすようなものでもないことに気づいたのです。それと同時に、理性的で、考え抜かれた、責任感のある、効果的な方法で対処できたにもかかわらず、僕は無意識的かつ本能的に反応していただけだったことにも気づいたのです。
今日、戦争、あらゆる行き過ぎ、環境破壊、肉体的・精神的な病気、技術革新の停滞、踏みにじられた人間関係や社会関係、人間同士や異なるコミュニティ間の隔たり感などで溢れています。さらに、実に憂慮すべきことに、社会そのもの、テレビ、広告、宗教団体、そして政府までもが、しばしばこれらすべてを支持していることにもう気づかないわけにはいきません。
自由や命を失うことへの恐怖、未知のものや見知らぬ人への恐怖、地獄への恐怖、天国に行けないことへの恐怖、死への恐怖、世界に自分の名前を残せないことへの恐怖、何者でもないことへの恐怖、金持ちでも有名人でもないことへの恐怖、愛されないことへの恐怖、孤独への恐怖、老いや病気への恐怖。僕らを恐怖の中で生きさせようとする陰謀が、僕らの周りにあるようにさえ思えることもあります。
「さて、僕らにできることは何でしょうか?」
愛。
まず自分自身に対して、そして他者に対して、愛をもって反応するとき、僕らは恐怖の刺激に対して正しく反応しています。もちろん、それには多くの忍耐と明晰さ、そして勇気が必要です。愛によって行動するということは、まず自分自身に耳を傾け、自分自身を第一に考えるということです。
僕は瞑想を通してそれを実践しました。心を落ち着かせ、思考を明晰に観察し、自分に栄養を与える訓練をしました。僕は恐れと愛の可能性への気づきからすべてを始めました。瞑想と気づきは、僕が恐れと向き合うのを助け、恐れと向き合わせ、恐れを観察し、恐れから何を学べるかを問うことを教えてくれました。
僕はまた、恐怖を感じるたびに以下の4つのプロセスを実践しました。
- 認識する。
最初のステップは、単純にそれを認めることです。痛みを伴うパターンや痛みを伴う感情の存在を認識しなければ、それを変えることはできません。この最初の段階を探求する中で、僕自身や僕の愛する人たちを追い詰めるような状況に自分がどんな反応や行動をするかを丁寧に認識することで、その反応の背後にある何が自分にとって大切なのかを見出す助けになりました。
僕らは自分にとって本当に何が大切なのかに常に気づいているわけではなく、しばしば何かが欠けていて、それを自分で見ることができなかったり、そうする勇気がなかったりします。僕たちは皆「盲点 」を持っています。「盲点 」は盲点以外の何ものでもないですが、それを認識することはできます。
「それではどうやって認識することができるのでしょうか?」
自分の身体感覚、感情、頭の中で反芻する思考、信念、価値観に反する行動をもっと丁寧に観察するのです。認識の反対は否定、拒否です。「受け入れる」ことです。それは、不快なことを経験していることを認め、今のままでいいのだ、嫌なのは当たり前なのだと自分に言い聞かせることです。それは存在し、それと闘っても、さらに痛みが増すだけです。痛みに抵抗するのはまったく普通のことです。抵抗さえも受け入れます。僕はどんなことにも立ち向かえるのだといつも自分に言い聞かせています。受け入れるということは、苦しみや恐れを引き起こす原因を正当化することではありません。
実際、僕は無礼、無作法、不正などを受け入れるのではなく、僕の心、身体、マインド、スピリットへの影響を受け入れるのです。その原因に対して私が経験し感じていることを受け入れることで、癒しと治癒のプロセスがはじまり、恨みを蓄積することなく正直に生きることができます。たとえそれがひどく不公平なことであっても。
「受け入れる」ことは、時間が必要であることも最後に付け加えておきます。それゆえに時には期待せず待たなければならないと理解することです。受け入れることの反対は抵抗です。
- 調査する。
状況を注意深く調査します。この段階では、自分に対して可能な限り愛情深く親切な態度をとることが重要です。ここでは僕が実際に探求するために使った4つの質問といくつかの具体を上げておきます。
「僕は、自分自身についてどう思っていますか?」
自分のことをどう思っているのか。安心できない、自分には十分な価値がない、愛される価値がない、自分は大失敗者だ、弱い自分、弱い自分を見せられない、自分だったら愛されない、自分はどこかおかしい、自分は他人より優れている、自分の人生では何もうまくいかないなど
「僕にとって本当に大切なものは何だろう?」
散歩、テクニック、お風呂、喜び、動くこと、休むこと、コミュニケーション、励まされること、専門家のサポート、時間/空間など
「信じ込みは、僕にどんな影響を与えているだろうか?」
幼い頃、目標を持たず、誰にも頼らない方が安全だと学びました。僕のあり方は他者にとって「奇妙」に映ったので、他者が望むように自分を偽り、演じることを好みました。僕は自分の面倒を見るべき人の面倒を見なければならなかった(両親や他の大人の世話など)。自分自身と愛する人たちを苦しめるような悪い選択をしてきたので、自分を信用できない。など
「この信じ込みをさらに強化したものは、何だっただろうか?」
信じ込みや潜在的な欲求が存在するのは、それが過去に何かの機会に役立ったからです。自分を裁くことを止め、注意深く、今を生き、自分の観察者になり、聞き手になれば、それほど努力しなくてもその信じ込みがこの質問によって解消していくのがわかるでしょう。調査の反対は、自分や他人をジャッジすることです。
- 非同一化する。
僕は僕の行動、僕の感情、僕の思考や感情ではない。起こることを限定しないとき、愛のためのスペースが創られます。これは重要な段階であり、特に古い傷や感情的に非常に強烈な体験と闘っている自分に気づくときです。泣いて手放し、身をゆだねることで、安心と癒しへの道が開けます。僕らの最大の支えであり、まさに愛の源である僕たちは、いつでも「僕はあなたを見ているし、あなたを理解している。時に重く、辛く、難しいことですが、あなたはひとりではありません。一緒に乗り越えましょう。」と言うことができます。非同一化の反対は、愛の優しさ以外のすべての出来事と同一化することです。
恐怖と愛は一緒に存在することはできません。でも、恐怖を愛することはできます。僕らの安全を守り、見守ってくれている恐怖に感謝し、他人も完全な人間であることを常に忘れないようにしよう。何よりも、愛をもって自分自身を扱い、最も深い恐怖さえも愛することによって、恐怖はやがて和らぎ、僕らのコントロール下に戻るという賢明な知識に慰めを求めよう。
愛への探求は、人類が何万年かけて歩んできた道であり、未だそこに辿り着いた人類を僕は知りません。だからこそ、今、ここで、ハートのプロセスの渦中にいることに誇りをもっています。少しでも多くの人がこのプロセスに導かれ、ご一緒できることを楽しみにしています。
次回のハートプロセスには、下記のリンクよりお申し込みください。
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