意識が変わるときには「パカっ」と音がする
意識の変化が起きるときには、体感的にも内側で何かが壊れたような感覚になるようです。
実際にセッションやワークショップの中でも
頭の中で「パカっ」と何かが割れるような感覚があった
目の前の景色が突然鮮やかに明るくなった
耳の奥でポンと音が聞こえた
などの声を聞きます。
その体験をサバイバルモードで感じることは出来ません。
緊張と闘争、評価を繰り返すボルテックスのサバイバルモードを俯瞰して通り抜けると、クリエイティブモードへと移行する選択が自由に出来るようになります。多種多様な命とともに、目標がなくても、また目標があったとしても協働することができます。
クリエイティブモードでは愛されないと危険だという緊張がない状態です。過去にサバイバルモードで大きなダメージ受けている場合には、それを癒そうと自然治癒力が働くヒーリングモードに自然と移行します。
固定概念というのは、まさに固執した物の捉え方で固まるまでには、壮絶な経緯とそれなりにそう考えたほうが得だった背景があります。つまり、生き残るために、その人自身が命がけでそう考えるに至ったと言うことです。
命の危険を感じた時に事実に基づけない短絡的な決断をすることを幼児決断といいます。身体的な緊張の中でつくられ、その決断をした本人には自覚がないことと頑なさが特長です。
私の幼児決断の一つは、「女は役に立たない」でした。その幼児決断がありそうだと理解したときに思い出した記憶は「男の子が欲しかったらしいのよ、あなたのパパは」と面と向かって言われた一場面でした。
幼児決断は、社会人の私をサバイバルモードへと放り込んでいきました。社会で生き延びるために役に立てそうなことなら何でも、自分のハートとの同意がないままやってのけていました。その頃の私には「女性だからこそ、大活躍」なんて言う現実は存在しないかのようでした。
「僕には女の武器とか通用しないよ」と面と向かって言われたのは、コーチングのトレーニングでの出来事でした。彼と目と目が合って、面と向かってまっすぐにそう言われた時、ハートの奥でパキッと何かが割れたような感覚があり、そのあと胸いっぱいに暖かい感覚が広がりました。
その瞬間「この男性も、自分と同じ人間なんだ。」と。感じて、まわりの景色が明るくみえました。その日の夜は、未来に対する大きな可能性が広がっていくのを感じながらも、半信半疑な気持ちで眠りました。
その後、私はその気づきをきっかけに自分の内側にある自分の性を市場価値として売り物にすると言う娼婦的な元型と直面することになります。セッションやワークショップでは、受け入れ難い自分の一面を発見する瞬間があります。
そんなプロセスを経て、今まで自分がやってきたことが正しいかどうかや誰かを責める気持ちは消え去り、女性に生まれたことに愛と感謝を感じました。それからは、物の怪が落ちた様に軽くなり、人間同士の生き方をしている人々と次々と出会う様になりました。
クリエイティブモードは、現実を美しく感じる感度をあげるために必要なプロセスであり、それは命の根っこを滋養する大切な時間でもあります。
工業社会の文明人は、この”未開な”インディオから多くを、学ばなければならないと思う。外なる社会の日程表が守るが、内なる時間、心の時間に対する繊細な感覚を、わたしたちはとうの昔に抹
殺してしまった。個々の現代人には選択の余地はない。逃れようがないのだ。わたしたちはひとつのシステムを作り上げてしまった。ようしゃない競争と殺人的な成績一辺倒の経済制度である。
一緒にやってやらないものは乗り残される。昨日はモダンだったものが今日は時代おくれと言われる。舌を垂らしながら、他の者を追いかけ、駆けているがそれは狂気と化した円舞なのだ。一人がかける速度を高めると、みんな速く走らなければならない。それを進歩と呼んでいる。
しかし、そんなに急いでわたしたちは、どこから去ろうとしているのか?魂なら、わたしたちはもうずいぶん遠くに置き残してきた。だがそのためにできた空虚さは、身体もまた病気にする。麻薬薬物や騒音に、失った代わりのものを求めるのだ。クリニックや精神病院がいっぱいになる。魂を失った世界、これがわたしたちの目標だったのか?みんなで力をあわせてこの狂気の円舞を止め、ともに円陣を組んで地面に座り、黙って待つことが、本当にできない。
(ミヒャエルエンデ)