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どうしたら、色っぽくなれるでしょうか?

色気は、出そうと思って自在に出せるものでもありません。色っぽさ=フェロモンが出ているということもよく言われます。「フェロモンを出すためには恋をしましょう。」という意見もありますが、「それができたら苦労はしないよ。」っていう話もその3倍ぐらいよく聞きます。

さて、何に色気を感じるかというのは、千差万別。定義するのは難しいし、何となく色気をだすハウツーなんて一生懸命取り組んでいる人がいたら、それはそれで興ざめだったりするかもしれません。

イタリア人男性は、どこなく色っぽいイメージがある気がします。ヨーロッパの中でも彼らは人気があるようです。そう言えば、ジムに行くとマッチョを目指すイタリア人男性とよく出会います。

中でも店長さんはかなりのナルシスト君で、ジムの受付で「チャオ」とあいさつするとウィンクを返してきます。おそらく、こういう瞬間にフェロモンが出てるんだろうなぁと思います。

日本だとウィンクする男性は、あまり見かけないかもしれませんが、イタリア人の男性は軽い挨拶で結構ウィンクを使います。ところで、この店長さん、自称かなりモテるようです。

「昨日、クラブでライター貨してくれないって女の子が寄ってきてさ。なんで、僕がタバコ吸うと思ったの?悪いけど僕は、持ってないよ。ってその場を離れても、その後もずっとこっちを見てたんだぜ。」と自慢話をしておりました。

(聞いた雰囲気で意訳してますので、スギちゃんを思い浮かべないでくださいね。)

だからと言って、「色気のためにジムに通いましょう。」というお話ではありません。男女かかわらず、日本にも「色気がある大人が増えたらいいな」という希望的観測に賛成な方は、もう少し探究にお付き合いください。

日本の色気というとやはり「チラリズム」。あからさまな性的露出よりもなんとなく見え隠れするチラッと見えそうで見えないエロティシズム。これが日本独特のものなんだということは、イタリアに住んであらためて実感するようになりました。

日本では、「嫌い」なことに対しても「あんまり好きじゃないかも」と表現するなど、その言語からも、明確にしすぎずに、遠回しで伝えるぐらいが「美」とされているように感じます。「人」と「人」との間や「人」と「人間」との境界線も曖昧であり、かつ繊細です。

平安時代、清少納言が書いた枕草子の中の「山の端」の「山ぎわ」という表現があります。どちらも「山」と「空」の間の境界を表現したものですが、「山の端」が山にある方の境界線、「山ぎわ」が空にある方の境界線だそうです。

過去に国語のテストで出題された時には、「どっちでもいいじゃん」と思っていましたが、この繊細な感性自体は自然に受け入れていたように思います。一方、イタリアでは、「家屋」と「自然」の境目がものすごい厚い壁があります。

実際、私も家の中に入るまでに3つの鍵を使っています。「県民ショー」ならぬ、「国民ショー」があったら、イタリア人は、驚くほど鍵をわんさか持っています。日本で、「カードキー」や「指紋認証」なんかでどんどん鍵が軽量化されている中、北イタリアの小さな村の人々は大小様々な鍵をガチャガチャと持って歩いています。

また、その言語においても、誰が主語になっているかによって、動詞まで変動するので、「私」なのか「あなた」なのかということも明確に、分かれています。そのそれぞれの「生き様」なみたいなものが「エロティシズム」とも深く関係しているのを感じます。

さて、本題のどうしたら、色っぽくなれるでしょうか。ですが、普段、見せている雰囲気と、全く異質なものが見え隠れするときに、色っぽさは、現れるように感じます。

さきほどの店長さんも、マッチョでいながらもどこかに「女性っぽさ」があるように感じます。男性でありながら、ふと見える「女性っぽさ」、どこか陰のある「憂い」を感じさせます。

これは、おそらく女性も同様で、普段男前に仕事をしているような女性がふと、色っぽさを醸し出させる要素になります。色っぽさを探究するためには、異質・対極のものに触れることがどうやらヒントになりそうです。

直感型で生きてきたのなら、ロジカルに、

朝型の心地よい生活に慣れ親しんでいるなら、夜の世界への冒険へ、

仕事ばかりで合理性を優先させてきたのであれば、根拠のない非合理な試みを、

色気のある大人が増えますように

最後まで、おつきあいいただきありがとうございます。

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