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愛のしがらみか自由になる



こんにちは、マウロ・ラサール・サンジョンです。

つい最近、仕事仲間と、今日の社会でいかに愛が混乱しているかということが話題になりました。愛の混乱から自由になれたらもっと愛を楽しむことができます。そこで今回は、愛に関するしがらみにどんなものがあるか、そしてそれが私たちの愛の体験にどのような悪影響を及ぼしているのか、お話ししたいと思います。


私たちには自由に、十全な愛を経験できなくさせている限界や、パターン、信念がたくさんあります。それらはいったい何なのか、いっしょに見ていきましょう。


1.見返りがないと愛せない?

誰かを好きになると、私たちは無力で無防備な存在になります。そして、好きな相手には愛されたいと期待し、思うようにはいかないことで混乱してしまいがちです。

逆説的ですが、期待せずに、愛し、与えることで、私たちは守られるだけでなく、愛という至上の幸福をより深く経験し、その真価を感じることができます。実際、愛するという体験は自分自身の感覚、つまりあなたの存在以外に確かなものはありません。

愛においては、物乞いにならず、王様になることにご招待します。そのことを深い次元で体験できたら見返りを求めることも段々となくなっていきます。与えること、感じることの純粋な喜びから、美しさ、喜び、穏やかさ、充足感が無条件にあふれ出します。ただ与え、とどまり、何が起こるかを観察することが可能になります。


2.誰かと愛し合えないと孤独?

孤独には、二つの種類の孤独があります。一つは、誰かパートナーがいなければ、一緒にいるべき人を見つけなければという恐怖を伴う孤独。もう一つは、自分自身と親密でいるという豊かな孤独です。孤独を愛することで、誰かと共に生きるすべての瞬間が愛になるのです。

前者の孤独を生きていると、例え、パートナーと出会えたとしても恋に盛り上がった時期が過ぎると、たいてい地獄のようなものになりがちです。数カ月もすると、誰かと一緒にいる新鮮さを感じる魔法が解け、恋の盲目状態で気にならなかった相手の態度に怒りや不満を感じるようになります。恋の熱が覚めると、また、自分自身に戻ります。誰かと一緒にいるからもう孤独ではない、というファンタジーが終わってしまう瞬間です。つまり、孤独から逃れるために愛を求めていると、その孤独は以前よりも重くあなたにのしかかることになります。

後者である孤独を生きること、つまり一人であることを幸せに生きていくのは簡単なことではありません。ただ、それは、誰かと共に幸せに生きることの礎になります。そうしているうちに、自分と同じように孤独を愛することができる相手が現れるでしょう。その相手はもはや昼夜を問わずあなたを束縛したり、困らせたりしてくることはなくなります。ただ、そんな相手を真の意味で愛するには、強さと勇気が必要です。相手との間にある愛を、日々新しく更新しつづけることが不可欠です。


3.愛とは相手と一つになること?

愛とは、相手と完全に融合して、どちらも個性を失うことではありません。愛を知る人は、誰もが一人の人間として満足していれば、人間関係は豊かなものになるということを知っています。愛の中で、人はお互いの夢を支え合い、その実現や自己表現の障害となるものを乗り越えるために助け合います。愛は、自己表現や自己実現をサポートしてくれます。

逆に言うと、あらゆる依存は、愛を制限します。自分自身に肯定感、安全感、自己愛を感じられない人が、どうして愛を感じることができるでしょうか。愛とは、愛する人を尊重し、自由を与えることです。もし相手に自由を与えないのであれば、それは愛でない、何か別のものです。


4.愛とは常に、何か、誰かに対して向けられるもの?

愛について考え、語るとき、私たちはいつも、パートナー、家族、友人、ペットなど、何かに向けられた愛について話します。でもそうすることで、本当の愛が見えなくなっています。愛とは、私たち自身の魂の放射に他なりません。自分の周りの全宇宙にまで区別なく及ぶものなのです。

私たちが愛を体験するときに、抵抗を感じるのは、無条件で無限の愛を、一人もしくは限られた数名だけに向けられるべきものと限定してしまっているからです。愛は本来、私たち一人ひとりに内在するもので、どこにいても、誰といても、あらゆる方向に愛が流れ、伝播し続けています。

愛することは、愛であることなのです。こんな風に定義すると「私は愛になることができるのだろうか?」と思うかもしれません。人生は愛が開花する機会にほかなりません。生きていれば、そのチャンスはあるのです。


5.愛は排他的なもの?

私たちは毎日、生活のあらゆる場面で、誰かにジャッジされていると感じ、そして、同時に他人をジャッジしています。

生まれた瞬間から、成長し、恋に落ち、結婚し、子供を持ち、老後は自分の子供に世話をしてもらうものであるという、この社会の中で愛とされているもののパターンに従おうとします。しかし、このパターンとそれに対するジャッジの悪循環の中だけに愛の定義を制限することで、愛はその純粋さ、独創性、本来の姿をすべて失ってしまうのです。

例えば、そこでは結婚以外の恋愛は異常で問題視され、人が愛するのは家族を作るためだけで、複数の人を愛すること、つまり、いろんな人と付き合うことは、愛とはみなされません。

しかし、本来、愛には選択する自由があります。義務ではありません。愛することは義務でも形式的なものでもありません。愛自体が喜びであり、分かち合いであり、無条件で無限のものなのです。


6.愛は所有欲、支配欲?

嫉妬は愛とは違います。私はあなたのものではなく、あなたは私のものでもありません。でも、私はあなたと共にあり、あなたは私と共にあります。

嫉妬と独占欲が、愛と同一視されていることにまずは気づくべきです。愛する人の行動、コミュニケーション、人間関係をコントロールすることは、その人を守ることになりませんし、その人にとってベストなことではありません。愛することは、愛する人の行動、思考、感情のためのスペースを残すことです。

愛は支配の概念に汚染されています。夫と妻、彼と彼女の間で、互いを支配しようとする欲が横行しています。このような愛は、甘えた支配に過ぎません。そこには愛という名のもとに、相手を利用したいという欲望があるのです。それは必ずしも意図的、意識的に行われているわけではありません。独占欲や嫉妬心は、私たちの愛としているものの一部になっています。だから、そのような愛は喜びよりも不幸を生み出すのです。


本来の愛は、自分自身にも他者にも自由を与えます。まず自分自身であるための自由、そして所有欲からの自由です。奴隷になるような愛は、愛ではありません。私たちの存在そのものが愛であり、私たちが愛を放つと、愛はその真価を発揮します。それは神性とも呼べるものです。真の愛は完全な自由を与え、無条件で、何も求めず、与え、分かち合うものです。そして、そのこと自体が幸せなのです。

そして、あなたがそれを受け入れたからこそ、愛はその真価を発揮するのです。


愛は、自分自身の内側に入り込むことで生まれます。本来の自分を取り戻すために、一度、自分自身さえも見失う必要がります。愛は、あなたのエゴが創造するものでも、実現させるものでもありません。愛は起こるものであり、身を委ねるものです。

愛すれば、瞑想が何であるかを知り、瞑想すれば、愛が何であるかを知るでしょう。愛は、私たちが何ものであるかを知るための機会です。私たちは、ただ、それらに気づくための時間を持たなければいけません。そうすれば、私たちは自分自身について探究するプロセスに、愛をもって向き合うことになるでしょう。それは魂の栄養そのものです。愛を与えれば与えるほど、あらゆる境界線がなくなっていき、愛が育っていくのです。


愛の講座は、自分自身であることと無条件の愛の循環です。来たる7月11日に「愛のしがらみから自由になる」をテーマに9月から開催される愛の講座の体験講座を開催します。


束縛の愛から、自由な愛へとシフトさせたい方、このブログでの体験を深めたい方などたくさんの方の参加をお待ちしています。今回の体験講座は、愛を限定しているしがらみから自由になることがテーマです。不自由にしている感覚を意識的に手放し。人々を混乱させる三大分野の一つである愛の分野で新しい愛の次元を体験しましょう。


7月11日(月)オンライン愛の講座 体験講座



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